インタビュー
2024.05.28
オポポフレンズvol.7【前編】映画『さよなら ほやマン』庄司輝秋監督に聞いてみよう!
海とのつながりは、いろんな形で身近にあるよね。教科書の中だけでなく、食べ物や、気持ちのいい景色だったり、物語の姿をしていることもよくある。
2023年11月に『さよなら ほやマン』という映画が公開されたよ。監督を手がけた庄司輝秋さんが、海にいる「ホヤ」をヒントに、ふるさとの石巻の島を舞台に描いたおもしろい作品。そこで今回は、庄司監督にお話を聞きながら、一緒に海のことを考えてみよう。
前編では、庄司監督が海で遊んでいた子どもの頃から大人になって映画を撮るようなるまでと、震災が起きたときのことなどを聞かせてもらったよ。今回のオポポフレンズは少しむずかしい言葉があるかもしれないけど、海について深く考えることができる種がいくつもある。ぜひ最後まで読んでみてね。
庄司輝秋 監督(しょうじてるあき かんとく)
映画監督、CMディレクター。1980年宮城県石巻市生まれ。東京造形大学彫刻科を卒業後、広告や映像制作に関わる。2013年、石巻を舞台とした短編映画『んで、全部、海さ流した。』(ndjc2012作品)を全国の劇場で公開。2023年『さよなら ほやマン』で長編映画デビュー。
海は遊び場
オポポ 今日はありがとうございます。庄司監督は現在、映画監督やCMディレクターとして活躍されていますが、小・中学生のころはどんな子どもだったのですか?
庄司監督 はい。よろしくお願いします。僕が生まれ育ったのは宮城県石巻市の「湊町(みなとちょう)」というところです。そこにある「湊小学校」に通っていました。北上川(きたかみがわ)の河口の、海につながるところだったので、よく川や海で釣りをして遊んでいました。
近所の釣り具屋さんに行って、冷蔵庫の中の餌のアオイソメを100円くらいで買って、みんなで分けて。ハゼとかスズキとかを釣っていたのかな。 釣りに飽きたら、砂浜で焚き火とかしていましたよ。
オポポ 子どもたちだけでですか?
庄司監督 そうなんですよ。今は危険だからなかなか子どもたちだけで海には近づけないと思いますが、あの頃はわりとおおらかだったんですね。でも同学年だけで遊ぶのではなく、6年生や中学生も一緒にいて、いろんな世代の子どもが一緒に遊んでる感じでしたから、親たちは安心していたのかもしれないですね。
オポポ 庄司少年にとって海は、遊び場だったんですね。
庄司監督 港が多かったので漁船もたくさんあって、勝手に入って怒られることもよくありました(笑)。船から海に飛び込んだりするとすごく楽しかったのを覚えていますよ。
オポポ 海以外で遊んだ思い出はありますか?
庄司監督 もちろん。湊町は山も近くにあったので、秘密基地を作ったり、7〜8キロくらいの距離は自転車で走り回っていたと思います。秋になると女川で「サンマ祭」(説明は#伝え繋いできた海 3-1へ)があるんですけど、200mぐらい並んだ焼き台でサンマをずーっと焼いて振る舞ってくれて、いつまでも食べ続けていられるっていうすごいお祭りで。がんばって友達と行って、お腹いっぱい食べてました。
オポポ わんぱくな少年だったんですか?
庄司監督 いやいや、みんなそんな感じでしたよ。でもやっぱり海は怖いと思うこともあって、一度、おぼれかけたことがありました。泳いでどこまで沖に行けるかってやっていて、気がついたらもう帰れないんじゃないかっていうくらい遠くに浜があって。怖くて怖くて、半べそかいて必死に戻った記憶があります。
オポポ 海の近くの町ならではの授業とか、行事はありましたか?
庄司監督 運動会になると普通は世界中の旗がバーって並ぶじゃないですか。あれが湊町だと「大漁旗(たいりょうばた)」でした。 町内会ごとの大漁旗がワーっと並んでいて。
- 大漁旗とは、船上から大漁であったことを港で待つ仲間や家族に伝えるために漁船にかかげられた旗のこと(写真:photoAC)
- 進水式とは、新たに建造された船を初めて水に触れさせる作業・儀式のこと(写真:photoAC)
オポポ それはすごい迫力でしたでしょうね。
庄司監督 大漁旗は船の進水式のあとはずっと置いておくんですよね。なので、けっこうお家に余ってたりするんですよ。それから、石巻には水産加工場もたくさんあって、校外学習でクラスメイトの実家のかまぼこ工場に見学に行きました。すごく大きな冷凍庫があって、みんなで中に入って「寒い~!」とかやってました(笑)。
オポポ 『さよなら ほやマン』の舞台となっている「網地島(あじしま)」にはどんな思い出がありますか?
(網地島 Google Mapより)
庄司監督 網地島は僕の暮らしていた地域からもすぐ近くというか、フェリーが出てて1時間ぐらいで行けるので、夏になるとよく連れて行ってもらうような場所でした。ビーチがすごくきれいで、いつも泳いでる海の色とぜんぜん違うんです。港の河口の海はあまりきれいじゃないというか……。
当時は生活用水が流れ込んでいた、あるいはそういうのが改善されていくような時代だったと思うんですけど、町の元気がだんだん無くなっていった時代でもありました。1950~60年代まではとても景気が良かったのですが、その後「200海里規制」(説明は#ルール作り 2へ)で遠洋漁業の仕方が大きく変わってしまい、それまで中心だったスケトウダラの水揚げと加工業から、しょうがなくイワシやサンマ、サバなど近海で取れる魚種にシフトしていったころだったと思います。
おもしろい人間になるべっちゃ
オポポ 庄司少年にとって遊び場だった海は、やがて成長とともに、社会的な意味での環境になっていったのですね。その後は大学進学で上京されたのですか?
庄司監督 はい。東京造形大学に進学して彫刻をやっていました。
オポポ もともと何かを作ること、創作や造形が好きだったのでしょうか。
庄司監督 10代のころは、自分が好きな映画や音楽、小説とかをもっと知りたいっていう気持ちが強かったんですね。高校生のころになると「自分を表現する人」になりたいって思うようになって、それで美術大学に進学したんです。でも明確に彫刻家になりたいっていうほどではなく、とにかく都会に出ておもしろい人間になりたいな、くらいに思っていたのだと思います。
オポポ 今のお仕事にもつながる、映像やCM制作の世界へはどのようなきっかけで?
庄司監督 大学での4年間、彫刻を一生懸命やったわけではなく、就職活動もほとんどせずに卒業しちゃったんです。2~3年はアルバイトをして暮らしていたのですが、どれも長く続かなくて……。さすがにこのままじゃダメだと思っていたとき、たまたま本で見つけたコピーライターの仕事に興味を持って、「宣伝会議」という出版社の養成講座に通うようになりました。
運よくそこで講師の先生に映像制作会社を紹介してもらって、そこでお弁当とかを手配するAD(アシスタントディレクター)のような下働きをしていたら、ある日「オーディションをやるから、来る人を撮っておいて」と言われて、それが僕にとってはじめての撮影だったと思います。
オポポ 最初の映像の仕事は「記録」だったのですね。
庄司監督 はい。しばらくするとCM制作のメイキングも撮らせてもらえるようになって、いろいろ工夫しながら編集してたら「庄司が作るもの、おもしろいじゃん。企画やってみるか?」と言われて、さらに自分の企画が通ると今度は「じゃあ演出してみる?」って感じで、どんどん転がるように突き進んでいったっていう感じでしたね。
震災から生まれた短編作品
オポポ 短編『んで、全部、海さ流した。(2013)』を作られたのはその後ですね。
『んで、全部、海さ流した。』
真冬の石巻、デブ少年と元ヤン少女は希望をさがすー。2013年3月に公開された30分の短編映画。庄司監督の第一回監督作品。
庄司監督 そうですね。2011年に東日本大震災が起きて、両親や家族は無事だったんですが、家は流されてしまいました。僕は湊町に戻って、泥かきとか、食料をくばるとか、父親が代表をやっていた湊小学校避難所を手伝いながら、家の被災状況をスマートフォンで何枚か写真に撮ったりしていたのですが、必要に迫られた記録としての写真であっても、そこには強い抵抗感を覚えました。
というのも職業柄「もうちょっと引いて撮った方がいいかも」とか、技術的なことを考えてしまう自分に違和感を覚えたというか、そこに表現の欲求みたいなのがあったんですよね。
オポポ 映像の仕事に深くたずさわるようになっていたころですし……。
庄司監督 それにあのころは報道関係者やカメラマンもたくさん石巻に来ていて、バシバシ写真を撮ってる姿にも不快感を覚えていました。「あなたが今立ってるその場所、誰かが住んでいた場所ですよ」って。今はむしろ撮っていてくれてありがたかったって思えるんですよ。だけど当時は結構イライラしていて。
オポポ 撮る側と撮られる側の間で、複雑な気持ちがあったのですね。
庄司監督 震災の直後って「みんなでこの危機を乗り越えよう」っていう意識がすごい高まるんです。「災害ユートピア」という言葉もあるように、みんなが協力し合うような世界観が一瞬、立ち上がるんですけど、すぐに崩れていく。
うちの家は家族が亡くなっている、でもあなたの家族は亡くなっていない、この悲しみは共有できないでしょう? うちの家は被災して仕事もなくなったけど、あなたは仕事があるじゃない? というふうに、口には出さないけれど、だんだんそういう意識の差が出てくるんです。
同じくらいひどい被災状況なのに、たった道路一本の差で補償金がもらえたり、もらえなかったりというのもそうです。それでも表面上は「がんばろう!石巻」の一員として、前向きな顔でメディアに出なきゃいけないという空気の中で、だんだん澱(おり)のように溜まってくるものを自分でも感じていました。そんな一年、一年半が経つ中で、感じた気持ちを文章として書き残していくうちに、いつしか物語みたいな形になっていったのが、あの短編だったんです。
ー後編につづくー
ライター 及川壮也(@soyaoikawa)